Wednesday, September 18, 2013

DJインタビューファンクション レッドブルアカデミーより (By Todd L. Burns 2013/2/25の記事より)



Dave Sumner は Functionという名前で活動してます。彼はテクノDJ、プロデューサーで、Sandwell Districtのメンバーとともに2000年後半エレクトロミュージックを有名にすることに多大な貢献をしました。Karl O’Connor (AKA Regis) と Juan Mendez (AKA Silent Servant)がSandwell Districtのメンバーでした。


その頃このジャンルの音楽は,もっとセレブリティーのようなものになって来てましが、まず音楽を最優先が彼らの思いでした。
彼らの特徴であるポストパンクに影響されたアートワークは、その頃情報(誰がプロデューサーでオペレーションだったとか)が欠けていた為にとても新鮮で多くの崇拝者を生みました。また素晴らしいクオリティの作品を生み出しました。

予想どうり、才能のある人たちがSandwell Districtに取り組んでました。Sandwell Districはこの10年間で本当に成熟したテクノレーベルとなりました。ハイライトは2010年に発売されたFeed-Forwardです。ですが、2012年の最初にはSandwell Districtは、永久に停止します。

今年、3月にファンクションはLP、Incubationを発売しました。このアルバムはファンクションが、夢見つづけたアルバム作りとなりました。
ラブレターをつづるように、レコーディング、ミックスイングとマスターリングを手掛けました。ミックスにはTobias Freundを、マスターリングにはDubplates & Masteringを迎えてIncubationは本当に素晴らしい出来となりました。

IncubationはOstgut Ton, ベルリンのクラブBerghain / Panorama Barのレーベルから発売されました。Berghain / Panorama Bar は何年間もSandwelのメンバーのハウスとなってました。

私たちはファンクションのアパートを訪ね、Ostgutとのリレーションシップ、彼の若い時代のニューヨーク、ライムライトでのDJのこと、Sandwell SkrillexDeadmau5
オーストラリアにツアーに行ったことを尋ねました。

Q:Ostgut はこのアルバムの発売レーベルとしては面白い選択でしたね。Ostgutはどういう印象でした?

F: Ostgutは僕がアルバムを作っていると知って、レーベルマネージャーNick Höppnerが新しいリリースについて、連絡をしてきた。その時にはまだ完成してなくて、スタジオで働いている途中だったね。まだ完成するまで、どこからリリースなんて考えてもなかったし、僕は今まで個人的にリリースを手掛けていたからどういう風に、レーベルにアプローチするのかわからなかったので、ちょうどよかったね。

でもいつも僕自身はOstgutのファミリーメンバーだと思ってたよ。彼らは本当に何回も[Sandwell District]チームを[Berghain]で演奏させてくれていたし、僕達に本当に好きにさせてくれてたね。

僕が初めてベルリンに引っ越した時には、Berghainは僕の隠れ家だったね。僕は別に仕事を探しているわけではなかった。僕は音楽制作していて、インスピレーションをもらう為とかに、Berghainにステイして(笑)。。。本当に長い時間、こんな経験ないようなくらいクラブで最高に長い時間過ごしていたね。

ニューヨークから2000年にきて、その時本当に“おー素晴らしい。ニューヨークにあったクラブに来たみたい。これは体験したことあるって思ったね”。

ライムライト(ニューヨークのクラブで90年代に超有名)も始めすごくて、5-6時まで開いていたよ。6時までいるのはさすがに永久的に続く感じがしてたけどね。

Q:Milli Vanilliの“Girl You Know It’s True”のエンジニアと働くチャンスが来たのは?またNickは何か特別なことを言った?ここが君のレコードのリリースに相応しい場所だとか?

F:彼が連絡をくれた時に、このレコードのコンセプトにもなるけど、僕はミックスエンジニアと一緒に仕事がしたいと、伝えたんだ。デモを始めて送った時にはオッケーこれがデモだけど、このまま受け取ってほしい。僕はミックスをしたいと伝えたね。

何が素晴らしかったって、僕らは時間が沢山あったことだ。僕はデモを8月に渡して、アルバムは3月に発売になった。ミックスエンジニアであるTobias Freundがしばらく忙しかったからね。でも時間があったし、とてもうまくいったね。

Q:どういったところがTobiasのレコードに対するアプローチですばらしい素晴らしい思った?


F:驚いたのは彼が僕に取らせた行動だ。 彼は高精度ドイツ人のエンジニアで、彼はボディランゲージを使う。それは僕にもっと正確さを出したね。初めは、彼の言うとうりにしたくなかった。いろいろ我慢することを学んだね。本当に素晴らしかった。僕は本当にこのアルバムで、さらに音楽に近づいた感じがした。
実はメージャープロダクションの方法を取りたかった。音楽の書き方から、レコーディング、ミックスイング、マスターリングなどね。

Q:でもそれは伝統的にはテクノのレコード方法ではないよね。なぜそういう経験をしたかったのかな?

F:僕はEno Oblique Strategiesカードをよく使うんだよ。今はウェブサイトがあるから行ってみるといい。適当にカードをクリックしてご覧。僕がスタジオにいる時によく使うね。ジレンマとかあるときに助かるね。

僕は実はレコードを完成させた後、自信がなくなったんだよ。僕はこれをちょっと大げさにしすぎたかなってさ。特にミックシングのプロセスをね。でもこのカードを開けると、“好き放題しすぎないように、自制しなさいってね”。だから、この取り組みを決めたんだ。

まあこれは僕が子供の時から目標としてた事でもあるしね。僕はレコードのレーベルとクレジットを見ながら成長したんだよ。プロデューサーが誰とか、ミックス、エンジニア、プロデューサー、コープロデューサーとかね。

テクノはそういう風にはしないからね。でもお勧めだよ。レコーディングに深みをつけると思う。僕は自分のことを多彩なプロデューサーと思って、チューンも描くよ。

もし僕がアコースティックギターのシンガーソングライターだったらレーベルのアルバムのレコーディングの責任は負わないだろうしね。スタジオに入れるだけ。そういう方法でアプローチしたんだ。いろいろ試したね。

Q:先ほどライムライトについて少し話をしていたけど、まあここは結構いろいろ話題になるけど、レジデンスDJだったんだよね。 

F:90年の初めに僕は18歳だった。それは木曜で、本当に中身のある10-12か月だった。その後もしばらく演奏したね。レジデンシーがある時はオーディアンスを伸ばすことがチャレンジだったね。

Q:どうやって18歳で有名なLimelightレジデンシーになれたの?

F:George E...という有名なクラブ少年がいて(笑)

F:大君主、Lord Michael が水曜日だった。僕たちは彼と連絡して、バックルーム、the Shampoo Roomで始めたんだ。[Abel Ferrara's] Bad Lieutenantの映画のシーンにもなったところだ。その頃皆、入口のロープを通ってライムライトに入らないといけなかった。入り口で選んでもらって、入る。その後、また選んでもらって、Shampoo Roomにはいる
とっても、入るのが大変だった。一度入ると、まるでアリスの世界だったね。また次に部屋があって、そこはパスワードが必要だった。そこはライブラリーだったね。

Q:ライブラリー?

F:その頃は本当にいろいろなデザインがあってね。毎週違っていることもあった。壁を動かしたり、まるで部屋と階段の迷路のようだった。
ひと夏にはガーデンもあったね。こういう試みがすごかったね。彼らはいつもデコレーションを変えていて、本当に入るまでいつもどうなっているか分からなかったね。僕が初めて行った時、帰る頃にはサイケデリックなマリオットのショーがあったりした。

Q:18歳でなくても結構すごかっただろうね。

ライフチェンジング。帰る時、本当にここに属したいと思ったね。これだ、これが僕のやりたいことだって。あれに代わるものはまだ見てないね。これがダウンタウン、ライムライトの話だ。まあ、すべて経験したわけではないしね。Danceteria, Fun Houseとか、もちろん時代が変わってもっとゆるくなっていったね。

Q:僕たちはちょっとロマンチックに話してる?それとももっと凄かったの?

F:あの時は人々はもっとチャンスがあったよ。もっとアートでクリエティブティだったね。今の商業的感覚と違ってね。今は不毛の時だと感じる、前と比べてね。

でもあの頃のゲイシーンとドラッククィーンはクラブシーンへ統合していたね。だから僕らに魅力があったのかもね。普通の世界から逃げるみたいね。隠れたパーティには秘密のソサエティーがあってね。これはライムライトだけなく、周りにいろいろあった。その頃のマンハッタンは今ほど高くなくてね。そしてGiulianiが来て、すべてが変わった。

Q:僕が正しく覚えていれば、Karl O’Connor (AKA Regis)が来た頃には、すべて変わった後だったんだよね。

F:そうだね。あの頃は僕はRogue Music(ニューヨークの楽器のお店)の上に住んでいて、そこでも働いていた。Downtimeという店が地下にあって、インダストリアルナイトがライムライトから、移らないといけなくなって来たのがその頃だ。

その頃、皆(クラブキッド)そこによくたむろしてね。Michael Alig murdered Angel...のことを覚えてるね。彼はちょっと妄想が入ってかもね、その頃には、ヘロインとかケタミンとかね。Michaelが自慢話を僕のビルの前でしてたのを覚えてる。まあ、彼らしかったね。だから僕は彼に起こったことにぜんぜん驚かなかった。彼はいつも、外れた感じだった。彼らの仲間は皆、破壊的だった。多くの人が亡くなったね。

Q:Karl はどう感じたのかな。彼はBirmingham、UKから来て、すべてが刺激だっただろうね。

F:そうだね、その頃のイングランドはニューヨークを熱愛してたね。Karlと僕が、話しをするときは、彼はBirmingham のRum Runner の話をしたね。これは’80年代のニューウェーブのニューロマンスシーンだ。彼らにはとても有名な夜があって、Duran Duranがハウスバンドだった。そこが彼らのスタートの場所だった。もしYouTubeにいったら見てご覧、ビデオとコスチュームがすごいね。インタビューで“僕らがニューヨークで見てきた、素晴らしいものを再現しているんだ。”ってね。
Karlはそういう環境の中、育ってたんだ。例えばSoft Cellとか、アルバムのNon-Stop Erotic Cabaretはその頃のニューヨークのレッドディストリクトのバイブがあるね。ちょうど80年の42丁目あたりだね。
彼が来たときは僕は30丁目の7と8の間に住んでたね、で42丁目までよく行ったよ。

Q:ノンストップのエロティックキャバレーだったね。

F:そうだね。それは彼がすべてテレビで子どもの時に見てたものだ。それがそこにあるってね。それらが僕らのリレーションシップを輝かせたんだ。僕はUKに行き、彼にWalesなどを案内してもらって、まるでエクスチェンジプログラムだったね。

Q:君はこのようなプロジェクトやアルバムつくりは何度も経験積みだけどSandwell Districtは君を今の位置に、今回のLPの作成に役に立ったのかな?

F:もちろん。Karl が中心だったけど。彼には本当に激励させられたね。Downwardsという彼のレーベルは本当に特別だった。彼は本当にたくさんのデモをもらってね。でもそこではリリースしなかったね。でも、ほかにチャンスを与える意味で、P&D とのディールを手伝ったりしたね。こういうことは普通は考えない、スペシャルなことだったね。ほかの人のことを考えて、ほかの人にも、表現のチャンスを彼は与えてたね。

Q:Sandwellがとても大きくなったことには驚きはあった?

F:大きくなったかな?(笑)

Q:いろんなことができるチャンスが増えただろうね。今Fabricのミックスをしているし、オーストラリアにDeadmau5とSkrillex一緒のツアーで行ったりね。

F僕たちがツアーで一緒だった時、Skrillexは、“君たちが僕をacid breaksに戻さないといけないんだよ”って言ってた(笑)。彼は魅力的だったね。彼がビックになったのは分かるね。ポップのAphex Twinだね。 Aphex Twinが初めて出てきたときは彼だけが特別だった。そこはハウス、そこはテクノ、Aphex Twinってね。

Melbourneでは2つのサインだったね。1つはすべてのアーティスト、もう一つのサインは“Deadmau5“。 Skrillex も自分用のキュービックがあったね。まるでオフィスのようだった。
Deadmau5が終わること僕らはバックステージにいて、コーナーを曲がりかけで、彼は顔をあげて、15,000人が大騒ぎだったね。凄かったね。
そして僕らがコーナーを曲がってKarlがミッキーマウスのテーマソングを歌ってた。“M. O. U. S. Eeeeeeeeeee”とDeadmau5の顔に歌ってしまってた。突然マネージャーとフェスティバルのオーガナイザーが現われて、散らばっていったけどね。(笑)

Q:ここでハウスについて少し話したいんだけど、今もちろんあなたははテクノDJで有名だけど、一度、ベルリンで見たときは、ちょっと特別なクラシックのシカゴマテリアルだった。どこから影響を受けたの?

F:僕は一度The Wireで、90年代の techno 対house 論争を読んだよ。90年代の techno 対house論争の言葉を聞いたのがそれが最後だった。90年代の初めはハウスとテクノは大きく違う様に分類されていた。本当にバトルだった。

僕がはじめにDJしだしたときは、ルーツはハウスとフリースタイルだった。80年代の初めの、ジャズ、ディスコとかポップとかも使ってたね。91年にライムライトに行くまで、テクノを見つけることはなかった。

Q:君はそのバトルに気が付いていた。

F:一度演奏し出したら、そこには大きな違いがあることに気がついた。少数のレコードは混ざり合ってたけど。
Little Louie Vega がSpastikを演奏すると“わお、テクノレコード?”という風にね。テクノのレコードもハウスで少し演奏されたけど、僕が気に入ったのは、Renegade SoundwaveのThe Phantomとか、Sweet Exorcist’のTestfourだったね。
そのようなテストレコードが僕を変えたね。とくにTestfour。なぜなら、これは、はじめの頃のラップのように、ベースとビープがあった。まるでエレクトロニックで、Kraftwerkみたいだった。オーガニックニューヨークハウスと違ってね。そしてデトロイドレコードを聴くようになって、すべてが変わった。



No comments:

Post a Comment